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富山県小杉町の始まりは、万治元年(1658年)9月29日、橋下条村寺林家三代寺林瀬兵衛が郡奉行に新町設立申請を願い出たことに始まります。このホームページはそのルーツと一族を紹介するものです。
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金森家の歴史


金森家ルーツ

 富山県小杉町の始まりは、万治元年(1658年)9月29日、橋下条村 寺林家 三代 寺林瀬兵衛が郡奉行に新町設立申請を願い出たことに始まります。

 このホームページはそのルーツと一族を紹介するものです。

 寺林家の元祖は金森斎宮という武将です。
 斎宮は戦国時代応仁の乱(1477年)が終わって間もない頃の明応9年(1500年)に生まれています。出生地は飛騨としか解りません。

 元来金森姓で一番有名な人物としては織田信長に仕え、飛騨高山の城主となった、金森五郎八長近がいます。長近は34,000石の城主として豊臣秀吉、徳川家康に仕えています。
 又、金森姓は美濃の守護大名土岐氏がルーツと言われています。土岐美濃守成頼の二男定頼を始祖として、美濃の動乱のなかにおいて、大桑に住んでいた頃は大桑姓を、又多治見に移り住んだ頃は大畑姓を名のっております。その後、土岐家の当主成頼が反対勢力頼芸に壊滅させられた時は美濃をはなれ、近江路金ヶ森に住み、そこで金森姓を名のります、これが金森姓の由来と思われます。

 金森斎宮は500石取りの武将として、諏訪城の出城の高桑郷に住んでおりましたが何かの知を得て、越中願海寺城主寺崎入道泰山(民部)に仕えたのでした。しかし、寺崎民部も当時国境の豪将として越中の武将が生き残りをかけ、上杉・織田の進行に併い、上杉方についたり又織田方についたりしていたとおり再三その選択をせまられ、ゆれ動いています。そして天文19年(1550年)9月24日上杉謙信の攻撃を受け寺崎入道は降参し、金森斎宮は願海寺の野に自刃したのでした。その当時の様子は斎宮公の掛軸及び橋下条寺林家の墓(赤石)の墓碑に銘記されています。斎宮の墓は自得寺に残る宝篋印塔と思われます。自得寺の大きなイチョウの木の間にあり、今も同寺の庭に残っております。

 斎宮の嫡子新右衛門仍久(当時17才)は自得寺を菩提寺として橋下条赤田に住み、戦国当時の安全を考えて姓も金森から寺林と変えることとなります。後に4,000石の田高地を得ています。その後謙信が急死し、織田信長の命により佐々成政が越中に入り、又謙信の後を継いだ上杉景勝が織田小出城を攻めたりしましたが、最後は信長が治め、願海寺城主寺崎父子も壮絶なる死を遂げています。

 やがて、豊臣秀吉の時代になり、富山は前田家により平穏な時代をむかえています。寺林家も前田家の恩恵を被り、横目付、十村役等のお役目を頂いて発展していきます。その為、寺林家の過去帳の始めの部分に記載されています多くの改名は前田利家を始めとして前田一族のものです。

 そして、江戸時代初期、万治元年(1658年)9月29日三代 寺林瀬兵衛は射水郡奉行に小杉の新町設立を申請し12月に前田藩より許可が下り、ここに小杉町が誕生します。その三代 瀬兵衛を偲んで橋下条赤田に石塔を建立しています。

 又、三代 瀬兵衛の二男長左衛門は分家し、前田家本陣を務め長左衛門家となり、四代 小右衛門の長子八三郎も小杉駅脇本陣として分家し八左衛門家と名のります。寺林家は本家文左衛門家、長左衛門家、八左衛門家の三家を中心に大きく発展してゆきます。

 しかし、江戸時代後期文政2年(1819年)九代 寺林弥二郎の時、突然加賀藩の農政改革が始まり、何の罪もない十村28人全員が投獄され、能登島に流刑になる事件が起きました。この時、九代寺林弥二郎も投獄され、この年の8月12日に無念にも獄死してしまいます。

 これを痛く悲しんだ十代 瀬兵衛は父を偲んで掛軸にし、慰めています。この十代 瀬兵衛が編選した過去帳・系図などが現在残っています。その後前田家も再び寺林家に対して十村役を仰せつけています。

十五代 金森政重
十五代 金森政重
 明治になり寺林家も金森姓にもどり、十三代 文左衛門が上新川郡下小泉村より康太郎(十四代)を養子に向かえ、同じ十村組の岩城ひさと婚姻、明治28年に長男金森政重(十五代)が生まれています。

 この政重と福寿寺の庵主寺林古学さん(従姉妹)が子供のころよく遊んだという聞き取りが昭和37年10月28日同じ金森一門の垣崎憲道氏によってなされ残っています。それによりますと東京世田谷に住む金森家が寺林文左衛門家であり、当時「大本家」と呼ばれていたこと。寺林の姓は飛騨の寺林の荘(神岡鉱山)よりきていること。福寿寺が高岡市の繁久寺(前田大納言、二代 利家公の寺)に属していること。十村役同士が婚姻そして、岩城家より康太郎さんも妻を目取ったことなどを話しております。


 現在、金森家(文左衛門家)の十六代 金森嘉重氏は平成11年4月に亡くなっております。

 このサイトは十五代 金森政重の長女旦(アサ)の三男、牧野啓一が作成いたしました。


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